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永遠の瞑想者、空海


山折哲雄

◆◆語り継がれる偉業に空海の人物像を見る

空海という人間の全体像をとらえるのは、容易なことではない。人間としての幅の広さ、思想の奥深さ、そしてその多面的な活動は並みの尺度ではとてもはかれない。いたし方がない。ここでは四つぐらいの視点から、この人物の特質を探ってみることにしよう。

写真 第一が、空海の留学僧としての颯爽とした姿である。かれは四国の讃岐(香川県)に生れ、やがて奈良に出て仏教を学んだ。二十四歳のとき「三教指帰(さんごうしいき)」を書いて、儒教、道教、仏教の優劣を論じ、出家の意志をかためた。これは、わが国でははじめて書かれた比較思想論というべきものだった。三十一歳のとき、遣唐大使、藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)の船にのって中国に渡る。唐の都・長安では、インドから伝えられた密教を恵果(けいか)について学び、多くのテキストやマンダラを収集して帰国している。わずか二年たらずの留学だったが、得意の語学を駆使して幅広い知識を吸収している。その関心は仏教や密教の世界はもとより、書画や彫刻、修辞学や言語学に及び、文こそ国家統治の道なり、の確信をえた。

その教養の広さ、活動の多彩さ、そしてものおじしない国際感覚という点からみれば、空海は明治の留学生・森外の姿をほうふつさせる。かれもまた軍医としてドイツに留学し、やがて言葉を自在に操る第一等の知識人として、目を見張る活躍をするようになったのは周知のことだ。

◆◆空海の政治的な野心、密教による鎮護国家

第二にあげなければならないのが、日本密教の創始者となった空海の姿である。帰国後かれは高野山に密教道場のセンターをつくり、ついで京都の地に東寺(教王護国寺)という伝道の前線基地をつくった。四十代から五十代にかけてであるが、いずれも嵯峨天皇の信頼と支援をうけて実現できたことだった。

この時期の重要な仕事として、「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」と「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」を著わしている。とくに「即身成仏義」は、瞑想を通して、肉身そのままで仏になる修行のあり方を説いたものだ。マンダラを拝み、真言ダラニを唱え、ゴマを焚いて大日如来を念ずる。すると眼前に如来のイメージが出現し、やがてそれと合体するような瞬間が訪れる。今日の言葉でいえば、幻覚と幻聴をともなう神秘体験ということになるが、そのときが仏と一体となって悟りをえた瞬間であるとする。いわゆる空海密教における「イメージ瞑想」である。今日のヨガ瞑想に近いものだが、しかし道元の「無の瞑想」とは、方法においても考え方においても根本的に異なるものだ。

第三が、政治の世界に積極的に進出して、日本の国のかたちをつくろうとした空海の活動である。密教思想を注入することで、国家を安定軌道にのせようとしたのである。そのためかれは、大内裏の中心に「真言院」をつくることに成功するが、それは嵯峨天皇の支援をえたからできたことだった。この建物は、天皇のからだに加持祈祷をおこなって悪霊を払うためのものだった。その内部には、マンダラを掲げて五大明王を祀り、毎年正月の第二週目に「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」なる儀礼をおこなった。国王(天皇)の健康管理を通して、国家の安泰を祈願しようとしたわけだ。

この時代の律令政治は、太政官(政治)と神祇官(神道)の二本立てで成り立っていた。だが、その上にさらに密教的な加持祈祷を導入することで、天皇と国家の鎮護という重大な仕事を担おうとしたのである。新年の初頭を飾る儀礼としてはすでに神道式の「前七日の節会(ぜんなぬかのせちえ)」(元旦からの一週間)という儀礼があったが、それに加えて第二週目に密教式の「後七日御修法」を並列させようとしたところに、空海の政治的野心をうかがうことができるだろう。



◆◆「入定(にゅうじょう)」という形で表された究極の弘法大師信仰

第四が、その死後、弘法大師信仰という名のもとに後世の日本人に大きな影響を及ぼしたということである。弘法の水や弘法の橋など、後世の治水事業や福祉事業にまつわる伝説が、かれの名とともに各地に伝えられていることを思いおこそう。わが国で大師信仰といえば、まずは密教の弘法大師と天台宗の慈覚大師の名が思い浮かぶが、全国的な分布と人気の点では空海の大師信仰が圧倒的な勢力を誇っている。

もう一つ欠かせないのが、四国霊場八十八ヵ所の成立である。日本の自然は起伏に富み、美しい山野河海に彩られている。その変化に富む自然のなかを歩き、土地に鎮まるカミやホトケの気配を感じながら巡礼していく。苦しい道行きもあれば、癒されていく楽しみも味わえる。孤独でさびしい遍路の旅ではあっても、「同行二人(どうぎょうににん)」という合言葉を胸に秘めて足を運んでいく。一人で旅をしていても、弘法大師が守り神のようにいっしょに歩いて下さっている。それで「同行二人」といわれるようになった。

面白いのは、空海という人間のその後の運命である。今でも高野山にのぼると、頂上の奥まったところに「奥の院」という霊地がある。そこは空海の遺体が葬られた場所であるが、しかしこのお山では空海は死んだのではなく、この山に「入定(にゅうじょう)」しているといわれている。定とは瞑想のことだ。すなわち空海は仏となって、永遠の瞑想に入っているというわけである。死を超越した即身成仏の姿を求めようとしているのである。弘法大師信仰の究極の形がそこにみられるといっていいだろう。




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山折哲雄(やまおり てつお)
宗教学者。1931年生まれ。東北大学文学部印度哲学科卒業。専門は宗教学、思想史。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、白鳳女子短期大学学長、京都造形芸術大学大学院長などを歴任。著書多数。

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情報更新:2008/9/12

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