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フルトヴェングラー
彼と出会えたことが、人生の最大の幸せ

樋口 裕一 


フルトヴェングラーを聴くと全身全霊が痙攣する
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きっと、多くの音楽ファンがそうだと思うが、私は苦楽に感動すると、全身に震えが起こる。歳をとってだいぶ感受性が鈍化したが、若いころは、人目をはばかるほどの痙攣に襲われたものだ。今でも、音楽に接して、その演奏がよかったかどうかを判断するバロメータは、全身の震えが何度私を襲ったか、ただ、それだけだ。
それゆえ、私がフルトヴェングラーを好む理由は、いたって簡単。彼ほど、絶え間なく私に震えを引き起こす指撫者はほかにいないということに尽きる。
 私のフルトヴェングラー熱は、それまでにない二度の痙攣によって始まった。最初は1964年、東京オリンピックの年。中学1年生の私は、初吟て「バイロイトの第九」を聴いた。『第九』は、それまでカラヤン指揮フィルバーモニア管弦楽団の演奏を好んでいたが、それとは比較にならない痙攣に襲われた。第1楽章の始まりから軽い震えが起こり、10分を過ぎたころからは自分でも驚くような感激と興奮と恍惚に震えていた。
 それに追い討ちをかけたのが、高校生のときに聴いた『トリスタンとイゾルデ』全曲盤だった。第1幕の愛の魔酒の場面あたりから痙攣が起こり始め、第2幕、第3幕とずっと痙攣し続けていた。「愛の死」の面では、痙攣に鳴咽が加わった。 それ以来、ベートーヴェンやブラームスの交響曲などに魂を震わせて、フルトヴェングラーを聴いてきた。ライヴ録音が発売されるごとに、貧乏学生にとってのなけなしの金を工面してレコードを買った。東京の安アパートで、朝から晩までワーグナーのレコードをかけまくり、しかもその演奏はすべてフルトヴェングラーという時期もあった。
 時々、別の指揮者に夢中になる。チェリビダッケ、ドホナーこ、ヴァントを追いかけた時期もある。今も、ヤンソンスに夢中だ。フルトヴェングラーのような主観的演奏に嫌気がさしたことも度々だ。だが、またしばらくすると、ヴェヌスに惹かれるタンホイザーのように、無性にフルトヴェングラーが聴きたくなる。それを繰り返している。

絶望に立ち向かい、大宇宙を験屈する『エロイカ』
 フルトヴェングラーはライヴに限るという人がいる。私もそれに反対しない。ライヴ録音にはデモーニッシュとしか言いようのない興奮があふれている。だが、曲の性質によるのか、スタジオ録音のほうが感銘の度合いの強いものも少なくない。
 このCDに収められた1952年録音の『エロイカ』もその典型といえるかもしれない。私がはじめて聴いたフルトヴェングラーの『エロイカ』もこの演奏だった。感動した私は、ライヴはさぞかし白熱しているだろうと予想して、50年のベルリン・フィルとのライヴ盤を買ったら、それほど変わらなかった、いやむしろスタジオ録音のほうが感動的だったのに驚いた記憶がある。その後、数枚のフルトヴェングラーの『エロイカ』を聴いてきたが、印象は変わらない。
 私は、フルトヴェングラーの『エロイカ』の力感にとりわけ圧倒される。表面的には、意外なほどおとなしい。だが、芯の強い弦の音が心の奥底をかきむしる。第1楽章もすごいが、とりわけ第2楽章が圧巻だ。冒頭のヴァイオリンの主旋律に重なるコントラバスの音からして、嘆きを抱えて葬送の列に加わる人々の足を引きずるような重々しさだ。悲嘆の感情が全身を駆け巡るが、そこに力が報っている。悲嘆にくれて絶望するのでもなく、悲しみが通りすぎるのを待つのでもない。絶望に対してエネルギッシュに立ち向かう。そのような精神がベートーヴェンの音楽自体にあるが、フルトヴェングラーで聴くと、それをいっそう強く感じる。オーボエの美しさにもあっと驚く。
 ほかの指揮者の場合、私は実を言うと、第2楽章まで聴き終わると、後は流して聴こうという気になる。ところが、フルトヴェングラーの場合、第3楽章のスケルツォも第4楽章も、それまでに輪をかけてデモーニッシュ。タテの音の線が不揃いであるせいかもしれないが、得体の知れぬものが出現して、大宇宙を抜雇しているような趣がある。
 この曲でも、私は何度も震えに襲われる。震えの一歩手前になる部分も多い。そして、巨大なもの、偉大なものへの畏怖のようなものをひしひしと感じる。白熱しないスタジオ録音であるがゆえに、それがいっそう強く感じられる。


偉大なもの、聖なるものの到来を感じさせるベートーヴェン
 併録されている『レオノーレ』序曲第3番は、私が初めて買ったオペラ全曲盤である1953年の『フィデリオ』から取ったものだ。中学の修学旅行の際、土産も買わず、飲み食いも友人にたかって、小遣いをためて買ったレコードだった。そのせいでもないが、私はこの演奏に強い感動を覚える。熱狂的ではないが、その分、じっくりと深い味わいを覚える。じわじわと感動が全身に広まって行く。そして、崇高なもの、偉大なもの、聖なるものの到来を感じるのだ。『コリオラン』序曲は、最初のハ短調の強烈な音が堪らない。指揮者によっては押しつぶされたような悲痛さが感じられることがあるが、フルトヴェングラーはそうはならない。これも力感にあふれ、魂を奮い立たせる。悲痛というより、同じハ短調の交響曲(『運命』)の冒頭のモティーフビ同じように、自分の宿命に対して闘おうという意志を、むしろ感じる。ただ、1943年6月のベルリン・フィルとのライヴの圧倒的な名演に比べると、このスタジオ録音は少々物足りないのは、やむを得ないところだろう。
 これからも、私は様々の演奏家に触れるだろう。様々の演奏家に夢中になるだろう。だが、私の中心に吃立するのは常にフルトヴェングラーだ。フルトヴェングラーと出会えたことは、私の人生の最大の幸せのひとつだったと思っている。


 

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樋口 裕一(ひぐちゆういち)
作家・翻訳家。1951年、大分県生まれ。京都産業大学文化学部客員教授。早稲田大学文学部卒業、立教大学大学院博士課程修了。小論文・作文通信指導の「白藍塾」主宰。小論文・作文作成書、翻訳書、日本語関連の一般書、併せて100冊以上を刊行、とくに『頭がいい人、悪い人の話し方』(PHP新書)などがベストセラーになった。

 

情報更新:2007/05/30
 

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