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アストル・ピアノソラに寄せる〜
戦う男のタンゴ・ヌエベ

coba 


伝統の中にある革新 複雑さの中にある“ポップ”
  日曜日のお昼にベニスの下宿でパスタを頬張っていた僕の目は、いきなりテレビに釘づけになった。やっていたのは、イタリアによくありがちな公開バラエティ系のカンツォーネ番組。そのおじさんは突然ゲストとして登場し、いきなり手に持ったバンドネオンを演奏し始めた。その音楽は、僕がいままでに聴いたどのサウンドとも明らかに異なっていた。聴いたこともないような強力なグルーヴ感とヨハン・セバスチャン・バッハの純朴なリズムエッセンスがガッチリと手を取り合っていた。伝統の中に革新が、複雑さの中に“ポップ”があった。
アコーディオンの絵
  それが、1979年、僕が初めて見た58歳のアストル・ピアソラだった。 僕はそれまで自分の人生で、正直アコーディオンのイメージが変革されるような、いわゆる頭をかち割られるように刺激的な音楽を聴いたことが一度もなかった。でも伴奏楽器に毛が生えた程度にしかアコーディオンが理解されていなかった日本で、この楽器のイメージを覆すような凄い音楽を作りたくて、その為にイタリアに留学し、ベニスの音楽学校でクラシック音楽を学んでいた真っ最中だった。そんな僕にとって、ピアソラの存在は恐ろしく刺激的で魅力的だった。僕は一気に彼の音楽の虜になった。

ピアソラタンゴは聴衆のためのもの
  なかでも僕のハートを最も射抜いたのは、彼の音楽家としての姿勢だった。
  ピアソラは自らの音楽を「タンゴ・ヌエベ」(新しいタンゴ)と称した。それは、まさに僕が目指していた、従来の既成概念を覆す新しい音楽作りにほかならなかった。それまでに蓄積したタンゴをもとにしながらも、その停滞した既成概念にとらわれず、全く新しい概念で音楽を作る。僕がやりたかったことをアストル・ピアソラという人は、遥か以前からやっていた。

  それまでのタンゴは“踊りのための伴奏音楽”だった。彼の提唱したタンゴ・ヌエベは踊るためのタンゴに劇的に別れを告げ、聴くための音楽として新しいジャンルとなった。ピアソラは、タンゴの中の一つのカタログでは断じてない。  彼のタンゴは伴奏から主奏へ、脇役から主役へとその音楽を昇華させた、全く別なものといっていい。ピアソラタンゴのクラクラするようなグルーヴ感は、踊り手のためのものではない。明らかに聴衆のためのものだ。

  しかし、なぜピアソラがそういう境地に達したのか? 子供の頃から自分の楽器のパブリック・イメージの悪さに苦しめられてきて、それが大きなバネとなってアコーディオンのオリジナル音楽を開拓する羽目になった僕と違って、彼の楽器はブエノスアイレスの産んだ魂の音楽、タンゴの花形楽器のはずだ。何を好んでそこに逆らおうとする必要があったのか? ひとつのエピソードがある。

  彼は30歳を超えてから、作曲を学ぶためにパリに留学する。そこで彼の運命を大きく変えてしまう恩師と出会う。ナディア・ブーランジェ女史だ。ピアソラが提出する対位法や和声の課題にピンとこないナディア女史は、ある日のレッスンでピアソラがアルゼンチン時代に作曲したトリウンファルというタンゴをピアノでつま弾くのを耳にする。ナディアは彼の手を取り、「これよ! これこそ貴方がやるべき音楽です」と熱を込めて話す。ピアソラは、頭に雷が落ちたように、自らの天命を知ることになる。彼は語っている。「私はそのころタンゴを演奏することを恥じていた。タンゴミュージシャンはダーティーなものであると思い込んでいた」と。子供の頃からクラシック音楽にあこがれを抱き続けた彼だからこそのパリ留学であり、もしかすると「ボルデル」と呼ばれる売春宿も兼ねたような酒場で、ダンサーの伴奏の為に演奏していた若き時代への反逆心から、タンゴミュージシャンではなくクラシックの作曲家になりたいと願っていたのかも知れない。いずれにせよ、この後の彼の人生は迷いを感じさせないかのように見える。ブエノスアイレスに戻った彼は五重奏団「QUINTETO TANGO NUEVO」を結成。クラシックの方法論を学び、オリジナリティに富んだ彼独特のタンゴ・ヌエベを作り出していく。

“タンゴを殺した男”の音楽は世界を駆け抜けた
  だが、その“新しいタンゴ”に対してアルゼンチンの評論家達は決して好意的ではなかった。新しいものが生まれるということは、ある人々にとって恐ろしく都合の悪いことらしく、愚かな彼らはピアソラに“タンゴを殺した男”という甚だ不名誉な称号を与えるに至ってしまう。

  信じる道を貫きながら、理解してもらえない苦しみ、悔しさを彼は存分に味わっていたことだろう。折しもペロン将軍による圧政で、彼の活動にもアルゼンチン国内では規制が生じてきたことを機に、ピアソラは祖国アルゼンチンを離れ、ヨーロッパに行ってしまう。

  ところが、そんなヨーロッパの映画クリエイター達は、この天才を放っておくことはなかった。ピアソラの音楽は、彼らの映像と共に世界を駆け抜けた。
  なかでもフェルナンド・ソラナス監督の「タンゴ ガルデルの亡命」はピアソラの天才が遺憾なく発揮されている傑作だ。この映画は僕が何かと行き詰まってしまう時に見ることにしている超お気に入り作品でもある。
  1988年にピアソラ氏が来日した時に僕は図々しくも楽屋へ押し入り、そのあとあろうことか滞在先のホテルの部屋にまで押しかけて、彼に僕の音源を渡した。

  彼に僕の音楽を聴いてほしかった。感想を聞かせてほしかった。彼が若い頃、ブエノスアイレスを訪れたピアニストのルービンシュタイン氏に同じことをしたように。ジャンルは違えど彼を見上げ続けて新しい音楽を作り始めた音楽家が日本にもいることを是非知ってほしかった。そしていつの日か一緒に仕事をさせて貰えることを夢見て。

  暫くして、パリの友人アコーディオニストのリシャール・ガリアーノからの電話で、アストルが倒れたことを知った。ピアソラ氏との共演という僕の分不相応な夢は叶わなかったけれど、彼の後輩である僕らの心の中で、ピアソラの“戦う男の魂”は、今日も熱く燃え続けている。

 

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coba
世界コンクールでの優勝以来、ヨーロッパ各国でのCDリリース、チャート1位獲得、歌姫ビョーク自らのオファーによるワールドツアーへの参加など、世界の音楽シーンに影響を与え続けてきた。また、自らの作品における挑戦的なサウンドワークでアコーディオンのイメージを革新し続け、サウンドプロデューサーとしても、TV・映画・舞台などメジャーフィールドから常にハイクオリティな作品を発信している希有な存在である。

 

商品番号 070 077
価 格 ¥2,447(税抜¥2,330)
タイトル タンゴ:ゼロ・アワー/アストル・ピアソラ
曲 目 (1)タンゲディア III、(2)天使のミロンガ、(3)キンテートのためのコンチェルト、(4)ミロンガ・ロカ、(5)ミケランジェロ '70、(6)コントラバヒシモ、(7)ムムキ
演 奏 アストル・ピアソラ&ザ・ニュー・タンゴ・クインテット
〔アストル・ピアソラ(バンドネオン)/フェルナンド・スアレス・パス(ヴァイオリン)/パブロ・シーグレル(ピアノ)/オラシオ・マルビチーノ(ギター)/エクトル・コンソーレ(ベース)〕
その他 全曲ステレオ録音、録音年代:86、Label:NONESUCH

 

情報更新:2006/07/21
 

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