2022.11.17国立歴史民俗学博物館 加耶展開催

みどころ
最新の発掘調査の成果を通して、加耶の興亡の歴史や華麗な文化に光をあてる。日本国内では30年ぶりに、約220点の加耶の至宝が一堂に会する。韓国の重要文化財(宝物)に指定された加耶の金銅製の冠も展示する。加耶の古墳で出土する倭の文物を通して、加耶と倭の緊密な交流の様子を浮き彫りにする。加耶の歴史、加耶と倭の交流史を体感することで、いにしえから現在、そして未来へと続く日韓の交流に思いをはせる。

冠

土器
展示の構成
※資料所蔵機関との調整により、章の構成と出品資料が変更になる場合があります。プロローグ 加耶とは何か日本列島の古墳時代と同じ頃、朝鮮半島の南部に、互いに協力し、時には競い合いながら活躍した国々がありました。この国々をあわせて加耶と呼びます。考古学的には、金官加耶(きんかんかや)、大加耶(だいかや)、小加耶(しょうかや)、阿羅加耶(あらかや)などの国々が確認できます。おおむね4~6世紀に、東の新羅(しらぎ)や西の百済(くだら)、海をはさんだ古代日本の倭、そして遠く中国などとも交流を重ねながら、成長をとげましたが、562年に滅亡してしまいます。4世紀には成立していた加耶諸国の中で、最初に力を誇ったのは、金官加耶でした。洛東江(らくとうこう)の河口に位置する今の慶尚南道(けいしょうなんどう)金海(キメ)市一帯に中心がありました。かつてその一帯は「古金海湾(こキメわん)」と呼ばれる湾でした。金官加耶はこの天然の良港を掌握し、東アジアの様々な社会と活発に対外交流を重ねました。また鉄を大々的に生産し、それを交易品として活用します。鉄生産と海上交易を一体として運営していくことに、金官加耶の隆盛の背景がありました。しかし5世紀を迎える頃、北の高句麗(こうくり)の攻撃を受けたことにより、徐々に弱体化していきます。その金官加耶と入れ替わるように加耶の盟主となったのは、今の慶尚北道(けいしょうほくどう)高霊(コリョン)郡を中心とする大加耶でした。各地の墳墓から出土する大加耶系の金銀のアクセサリーや装飾大刀は、大加耶の中央による社会統合の意図が込められています。479年には加耶諸国の中で唯一、中国への遣使を実現させるほどの勢力を誇り、倭とも密接な交流を積み重ねました。しかし、6世紀に入ると、新羅と百済という強国のはざまで、その勢力に陰りが見えてきました。532年に金官加耶が新羅の影響下にはいった後には、衰退の一途をたどり、ついに562年、大加耶は新羅の軍門に下ります。ここに加耶の歴史は幕を下ろすことになりました。